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福岡空港は昔「板付空港」と呼ばれていたが、なぜ板付の名前が付いたのか?

2020年05月19日

板付遺跡のある板付3丁目は、空港から少し離れた閑静な住宅街

 

板付と言えば、今やその名を全国的な知名度にまで押し上げた板付遺跡の存在を忘れてはなりません。板付遺跡のある板付3丁目は福岡空港から南側に少し離れており、空港ターミナルビルからだとタクシーで10分程度かかります。空港に一番近い板付1丁目でも空港に隣接しているわけではなく、空港の南西側に隣接しているのは東那珂や西月隈といった住所になります。また、福岡空港そのものの住所は下臼井です。

【現在の板付と福岡空港は少し距離が離れています】

板付遺跡付近は確かに空港が近く、時折上空低く旅客機が通過していくのですが、それ以外は至って普通の街並みであり、空港の名前になった何かがあるわけでもないようです。

【板付交差点付近 空港の近くではありますが、隣接はしていません】

福岡空港の歴史を振り返る

では、ここで福岡空港の戦前から戦後にかけての歴史を振り返ってみましょう。福岡空港は元々昭和19年に陸軍が「席田(むしろだ)飛行場」として建設したのが始まりです。この席田という名前の名残は現在も残っており、空港のすぐ東側には席田小学校があります。空港開設当時、この周辺を席田地区と呼んでいたということですね。
そして終戦を迎え、席田飛行場は米軍に接収されます。実はこの時点で、席田ではなく板付という地名が選択され、板付空港(イタヅケエアベース)と呼ばれるようになりました。年表によると、「飛行場は周辺土地とともに接収され」とあります。

【空港内にある歴史年表 空港の歴史が一目でわかります】

その後、昭和47年に米軍から返還され、福岡空港と呼ばれるようになったのです。従って、板付空港の名付け親は米軍ということですね。
ではなぜ米軍は接収時に席田ではなく、少し離れた地名である板付を選んだのでしょうか。

【米軍接収当時の板付空港 いたづけではなく、いたずけなんですね】

福岡市の地名の歴史と照らし合わせてみましょう

そもそも、席田地区はもともと席田村と呼ばれ、昭和8年に福岡市に編入されるまでは独立した村でした。そのため、編入後は席田という住所ではなく、月隈や臼井といった地名が福岡市の住所になったのです。ただし、その名残でこの一帯はそのまま席田地区と呼ばれることが続いたのですね。従って席田飛行場と名前が付いたのでしょう。
一方の板付ですが、昭和30年に福岡市に編入された那珂町に属している町名の一つでした。那珂町は席田地区の南西側に位置し、今の東光寺や諸岡のあたりも那珂町でした。なお、当時板付という地名は今の板付1丁目~7丁目よりももっと広い範囲を指しており、今の雑餉隈あたりまでを板付と呼んでいたようです。
また、西月隈や東那珂といった地名は昭和50年代に新しくできた地名であるため、米軍接収当時は存在しませんでした。
ということは、席田と板付は戦前から戦後にかけてほぼ隣接していたということですね。

【昭和15年の福岡市地図 席田地区は一面農地が広がっているようです】

米軍にとって席田は発音しにくい!?

伊丹(大阪)や小松(石川)と同じく米軍に接収された席田飛行場ですが、米軍はここだけ施設名を変えています。これは、席田という地名が米軍にとって発音しづらいことが理由のようです。また、駐留軍の軍人の多くが、接収された周辺土地である板付から春日市にかけて作られた米軍住宅に住んでいたこともその理由でしょう。米軍にとっては板付と言う地名の方が馴染みがあったのですね。

今では板付空港という呼び名はほとんど聞かれなくなりましたが、遺跡の発掘により再び板付と言う地名が注目を集めています。太古の遺跡と米軍の残した名前、そして現在の国際空港の姿が対照的なこのエリア、福岡の歴史の魅力がぎゅっと詰まっていますね。

【空港ターミナルから板付方面を見てみると、今は航空自衛隊の建屋がありますね】

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