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上呉服町に今でも残る戦争の爪痕

2020年05月19日

古くからの商人の街ということは・・・

日本全国、どこを訪れても古くから栄えた商人の街は存在します。代表的なのが東京の日本橋ですが、この呉服町も日本橋と同様、太閤検地によって区画が整理され、碁盤の目状に街並みが広がるエリアとなっています。

上呉服町付近にも、「東町筋」「西門通り」といった名称の細い通りが何本も通っており、戦後にできた大博通りや昭和通り以外はどの通りも細く、車1台がようやく通れる程度の道幅が続いています。このように、古くから続く街並みはどこも細く狭い道が碁盤の目のようになっているのが当たり前なのですが、そんな中、1本だけ片側1車線の少し広めの道路が引かれていること、気が付きますでしょうか

その名も「疎開道路」

大博通り、地下鉄呉服町駅と祇園駅のちょうど中間あたりから右に入り、途中で左に曲がって昭和通りまで抜けるこの道路、周辺の道路と比べてここだけ道幅が広いのです。

その理由は「戦争」にありました。

太平洋戦争中期から末期にかけて、米軍の空襲が日に日に激しさを増す中、あらゆる日本の都市が空爆を受け焦土と化しました、福岡も例外ではなく、1945年6月にはB-29爆撃機の編隊が福岡市上空に飛来、瞬く間に福岡市の3分の1の家屋が罹災したと記されています。

それに遡ること1年前の1944年、日本政府は米軍の空襲対策として、建物の延焼を防ぐために一部を「疎開」させ、幅の広い道路を作り空襲による被害を食い止める策を各自治体へ命じていたのです。

密集かつ木造建築の多いエリアは延焼しやすい

呉服町は古くからの商業地であります。即ち、伝統的な木造建築の日本家屋が密集し、一度火の手が上がると周囲への延焼を止めることが難しいエリアでした。そこで、福岡市はこの呉服町にあった建物を一部「疎開」させ、幅の広い道路を作ることで延焼を食い止めることにしたのです。

ではなぜ呉服町のこの場所を疎開させたのでしょうか。

それは、市やこの街の人々がどうしても延焼を食い止めたかった存在がこの地にあったからです。

上呉服町とこの疎開道路を挟んで向かい側にあるのは、そう、日本最初の本格的な禅寺として有名であり、境内は国の史跡に指定されている「聖福寺」なのです。

この疎開道路が実際に役に立ったかどうかは定かではありません、しかし、住み慣れた建物を疎開してまで守るものがあったのは事実です。もう70年前の出来事であり、当時を知る人も少なくなっていますが、このような歴史がこの地にはあるということを、次の世代に伝えていきたいものです。

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